Roland Dyens


ローラン・ディアンスのコンサートに行ってきました。
(右写真はその時に彼が座っていた椅子。ピンボケ注意。)

ディアンスはチュニジア出身のギタリストです。
「クラシック」という枠にとらわれずに、民族音楽を中心に様々なジャンルの曲を演奏していますが、この日に演奏したソルの『マルボロの主題による序奏と変奏』などを聴く限り、古典の曲にも深い造詣を感じます。というか、古典>現代曲みたいな決めつけをせずに、クラシック曲もポピュラー曲も、「ディアンス」という芸術家の変奏曲であるかのように弾きこなしていて、演奏家とは、機械のように曲を正確に弾く人ではなく、過去の曲をその場で生きなおす機械なんだな、と考えたりしました。かつて存在したもののコピー機ではなく、原本を新たに作り出す逆コピー機のような。

では、そんなディアンスは、すごく強烈な個性の持ち主かというと、ちょっと違って、巨躯を狭い舞台で窮屈そうに揺らしながら、小声で、何やら冗談めかした会話を聴衆と交わしたり、会場の後ろの方でスタッフが「ガシャーン」と大きな音を立てたときも(←ありえない!)、演奏をやんわり止めてくすくす笑っていたり、何か「大家」めいたところは一切なく、ちょっとダンディで風変わりなおじさん(変なおじさんではなく)といった風貌をしていて、そんな彼が、その雰囲気のまま、鼻歌でも歌うように、ショパンやヴィラ=ロボスのピアノ曲からの編曲(明らかに難曲)をサラサラ弾いては、ささやき、超絶技巧満載の自作曲をずばっと弾いては、ささやき、…。

技術的に衝撃を受けたのは、何といても、弱音の多用です。クラシック・ギターは元来音量が出ない楽器ですから、それじゃあ聴こえないじゃないか、というと、そうでもなく、むしろ、パッセージが音もなく過ぎ去る感じがとても鮮やかで、そこに存在しない音を頭の中で補いながら、聴き手としての僕らも即興演奏に参加しているような、そうやって会場全体がゆるい波に浸されていくような、そして、穏やかさのなかを時にフォルテが轟きわたり、全体にリズムを与え、また過ぎていくといったような、そんな感覚。

とかく、大きい音が出せない=多くの客を呼べない楽器であるクラシック・ギターは、マス文化の中でマイナーな扱いを受けることが多いですが、小さな曲にどれだけの発想が詰め込まれているか、小さな一音にどれだけ多様な音色が響きわたっているか、そんなことに気付かせてくれる楽器でもあります。
この日のコンサートも、辺境の地から、軽やかにいろいろな壁を越えていく一陣の風のような、そんな素敵な演奏会でした。

コメント

  1.  ブログ「映画的・絵画的・音楽的」の12月19日の記事で、関連する事柄に触れましたから、読んでみて下さい。

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