2010/01/10

スピノザに還る


今月の「Magazine Littéraire」はスピノザ特集でした。
年明け一発目の雑誌レヴューは、これしかない!



スピノザと言えば、泣く子も黙る大陸合理主義哲学の中心人物、デカルトやライプニッツと並ぶ17世紀=「天才の世紀」の主人公です。
彼の哲学を一言でまとめるのはもちろん無理ですが、簡単に言ってしまえば、まず、「神即自然」という考えによって、神は人格的な創造者ではなく自然の創造性なのだ、と説きました。これは一見すると、神を物理的自然に置き換える無神論的な発想に思えますが、実は、物理的自然も含めた世界全体を産出する力として神を肯定する思想です。このような考えに従って、スピノザは神に授けられた能力としての自由意思を否定します。そもそも人間に何かを授けるような神は存在しません。ただ、人間の有限な思考が、その有限性を超えるレベルにまで高まれば、神と同じように、つまり何ものにも縛られずに、認識することができるとスピノザは考えます。この意味で、自由意思を否定しながらも、単純な決定論に陥るどころか、思考が自由であるための可能性を開いています。

こんな風に独特の仕方で「神」や「自由」の問題を扱うスピノザの哲学に、これまで多くの人々が魅せられ、それを解釈し、展開しようとしてきました。
本特集の冒頭にはこうあります。
スピノザはこれまでずっと、一筋の流星のように思われてきた。光輝き、そして孤立している、と。1960年代に知の舞台の中心に舞い戻り、そして今日、スピノザは、押し寄せる出版、解釈、そして活用の新しい波にさらされている。
 実際、主要著作の新しい版だけでなく、新しい視点からのアプローチが様々な書籍となって出版されているみたいです。
しかしながら、今回の特集でちょっと目を引くのは、ただ新しい方向性を声高に喧伝するというよりは、いったん腰を据えてテクストに立ち戻ろうよ、という雰囲気が、いろいろな記事の底流にあるという点です。1960年代を中心とするスピノザ・ブームが過ぎ去って、その次の世代の研究者たちが、先人の業績を引き継ぎつつ、今一度、スピノザの書いた文章そのものを捉え直していこうとしている様子が窺えます。

スピノザの主著である『エチカ』は、1677年にオランダ語版とラテン語版が出版されましたが、後者はその後も再版され修正され続け、1925年のいわゆるゲプハルト版に落ち着きます。しかしながら、17世紀当時のラテン語は、いろいろな文献との柔軟な横のつながりを考慮しないと正確には理解できないものらしく、その点で、今日流通しているゲプハルト版といえども問題を抱えているようです。
例えば、スピノザの時代に上演されていた、古代ローマの劇作家テレンティウスの作品への参照を行わなければうまく翻訳できないような箇所が数多くあります。おそらくこうした古典的素養の質の高さが、哲学的思想的な文脈を超えて、ゲーテやハイネらドイツロマン主義の文学者たちを虜にしたのでしょう。



スピノザといえば、『エチカ』における簡素で厳格な文体が有名です。そこから何か有益な情報を引き出そうと手に取ってみたものの、辟易するほどに抽象的な定義、公理、定理、証明、系とスピノザ自身による注釈が、実に無感動に連鎖していくのを追っていると、いったいいま自分は主体的に何かを考えているのか、それとも何か巨大な計算機の歯車の一部にでもなってしまったんじゃないか、といった感覚に襲われることがしばしばあります。しかし、そこには何か奥深い熱気のようなものに触れているというドキドキするような感触もあったり。その感じは、ちょうど抽象画を見ているときのものに近いかもしれません。(上の写真は、スピノザに関する記事に何気なく挿入されていた、カンディンスキーの「オレンジ」というリトグラフです。)

20世紀のスピノザ・ルネッサンスを牽引したジル・ドゥルーズはこう言います。
つまり、ちょうど二つの『エチカ』が共存しているようなのだ。ひとつは、命題・論証・系が連続して線や波をなしている『エチカ』。もうひとつは、注釈による不連続な『エチカ』で、こちらは折れ線、あるいは火山の連鎖を構成しているのだ。
完成された巨大な体系としてのスピノザ哲学。汲みつくせぬ思想の源泉としてのスピノザ哲学。読む人にとってそれぞれのスピノザが存在します。でも、その本当の魅力は、まだ明らかになっていないのかもしれません。これからも続いていくであろう文献研究の成果を、喜びとともに待つことにしましょう。

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