カメラ、盗み見る視線

ロンドンのテイト・モダン美術館で、
『Exposed』という企画展を観てきました。
Exposed-Voyeurism-Surveillance-Camera

 『晒されたもの、覗き見、監視、カメラ』というタイトルからも分かるように、
写真の本質を「盗み見ること」のうちに見出そうという、いささかショッキングで挑発的なテーマです。



いわゆる「盗撮」は、一般的には、写真という技術を悪用したものであり、
カメラの本質は、盗み見ることなどではなく、
堂々と目の前に広がる風景を写しとることだと思われています。

しかしながら、目の前に広がる風景を写すときに、カメラという人工物の介在が、
すべてのバランスを狂わせてしまうということがしばしば起こります。
特に人物の撮影において、彼や彼女の「自然な」表情を捉えるためには、
非常に高度なテクニックが必要だということは、周知のことでしょう。
目の前の風景を、そのまま「写す」ためには、写している主体であるカメラの存在が、
その風景からできる限り差し引かれなければならないのではないでしょうか。

写真の本質が「自然を写すこと」だとすると、
カメラはできるだけその存在を消さねばならないことになります。
こう考えていくと、写真の本質が「盗み見ること」にあることが分かってきます。

実際、今回の企画展が示す通り、
カメラの発明とほぼ同時期に、盗撮のための道具が発明されています。

この Walker Evans による写真も、
カメラの存在を気付かせないことによって、1930年代のニューヨークの地下鉄に乗る人々の「自然な」表情を捉えています。





さて、「自然な」風景を気付かれずに盗み見たいという欲望は、
秘められた事実を暴きたいという欲望と密接に結びついています。

そこに、ダイアナ妃をはじめとする著名人を執拗に追いまわし、
平均的な市民には手の届かない彼らの生活を隠し撮りする、
パパラッチと呼ばれる人々の行いがあります。
カメラの大衆への普及や新聞等のマスメディアの発達によって、
この傾向は近年ますます強まっていると言えるでしょう。

またこの欲望は、
いわゆるポルノ写真に対する欲望とも関係しているでしょう。
公共の視線からは隠され秘められた「女性の裸体」を写すということは、
写真の持つ「盗み見る」という本質を、
これ以上ないくらいあからさまに示していると言えそうです。

しかし、盗み見る欲望を刺激するのは、
セレブの私生活や女性のヌードばかりではありません。
日本語でも、「怖いもの見たさ」という表現があるように、
恐怖や暴力、死といったものに強く惹きつけられた写真があります。

道端に放置された死体が、発見され、警察に通報され、処理される過程を、
マンションのベランダから「記録」し続けた写真、
火事から逃げるために窓から飛び降り、死亡した女性の写真、
中国での公開処刑のシーン、首つり死体の前での記念撮影、などなど。
この企画展で、最もショッキングなゾーンと言えるでしょう。

戦場から逃れるために走って来る子どもたちを写した写真を見ていると、
被害者たちに手を差し伸べるにはあまりに巨大な災厄の到来を目前にして、
カメラを構えて、それを記録しようとする「視線」は、
真実に目を開いているのか、それとも目を逸らしているのか、
暴力に立ち向かっているのか、ファインダーの奥に逃げ込んでいるのか、
そのどちらでもあるような、どちらでもないような苦しい気分に襲われます。

この企画展の最後には、これまでいろいろな写真を眺めてきた観客たちが、
実は撮影される側にも立たされているのだ、という事実を突き付けるように、
「監視カメラ」のテーマが提示されます。
監視カメラは、その存在を隠すというよりはむしろ誇示することによって、
私たち自身の内側に、「監視する視線」を植え付けていく機構です。
盗み見る欲望と盗み見られる対象は、ここで逆転します。
カメラを構える私たちは、世界から遠ざかり、存在を消そうとしますが、
その一挙手一投足は、監視カメラによって記録され、
私たちは紛れもない世界の一員として、そこに投げ込まれるのです。

この動きは、何かを生産するという創造的な行為が、
それを商品化し、流布させることにすり替わってしまう現代社会の構造と、
どこかで通じ合っているのかもしれません。
盗み見るという行為のうちには、現場から逃れることと、
現場に捉われるということの二重性があるように思います。
逆に考えてみると、カメラという小さな道具は、
監視する権力の片棒を担ぐことであると同時に、
その権力の裏をかいて、
そこから逃れるための突破口を開くことを可能にするのかもしれません。

Henri Cartier-Bresson による、この一枚のスナップショットの上でも、
画面から逃げ去るものを囲い込む視線と、そこから逃れていく視線とが交叉し合いながら、
どこか新しい場所を目指しているような気がします。

コメント

  1. ブログ「映画的・絵画的・音楽的」の6月14日と15日の記事において関連する事柄に触れているので、読んでみて下さい。

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  2. ホーピーズ2010年6月24日 15:09

    「Exposed」という企画展が分かりやすく説明されていて、まるで観て来た様によく理解できました。  パパラッチの写真、ポルノ写真、死体の写真、戦場の写真等が目に浮かびました.最後のブレッソンの写真と「カメラと
    いう小さな道具が権力の片棒を担ぐと同時にそこから逃れるための突破口を可能にするかもしれません」という結びを読んでホットしました。それは、この企画展の重苦しい内容から,一気に解放されたように感じたからです. 次回も楽しみにしています.

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  3. >ホーピーズさん
    的確なコメントありがとうございます。
    写真の楽しさを危険さについて、いろいろ考えさせられる企画でした。これが写真という「芸術」の全てではないにせよ、あまり語られることのない側面を鋭く射抜いているように思いました。

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